【地頭×知的好奇心=推理力】カズレーザーの頭の良さの正体。
メイプル超合金のカズレーザと言う芸人は同志社大学卒業であり確かに高学歴だ。
しかし彼のクイズの正解率は東京大学の堀江貴文を悔しがらせ、京都大学の宇治原に「カズレーザーに(クイズの)年間成績で負けた場合は「『Qさま!!』を引退する」とまで宣言させた。
格上の学歴に意識される彼の頭の良さの正体は一体どこにあるのか?
その答えは彼の二面性にあると私は思う。
勿論二面性だけあってもダメだ。しかし彼には関関同立に合格できるだけの座学の基礎がある。
そして一番人目を惹くのは彼の二面性はどちらも嘘偽りではないと言う事だ。
カズレーザはいわゆるどのようなタイプとも楽しくお喋りができる。
いわゆるオタクやDQN共だ。
普通の人ならどちらかと話している時は無理をしている可能性が高いが、カズレーザはどちらも恐らく本当の顔だ。
二面性のある人格がどちらも嘘ではなく一人の人間として成立している。
こう言う事は私は珍らしいと思う。
勿論デメリットもある、カズレーザは国立大学を目指していたが合格に至っていないが、恐らくは二面性のある性格のせいだ。
完全に私の偏見だがマーチ・関関同立を偏差値で抜け出すには地頭の良さ以上に絶対に受かるべきであると言う激しい思い込みが必要になる。
多様な価値観と言えば聞こえは良いが、DQNともオタクとも恐らくは仲良くできるカズレーザの二面性。
関関同立を抜け出すには気が散ったのだろう。
それに加えてカズレーザは銀行の内定を蹴って、芸人になった男。
学歴にだけ気を向けるには自分の中にファンタジーが多すぎる。
しかし彼の二面性は学歴をとる際には多少のデメリットになってもクイズの世界では強かった。
タレントの伊集院光もクイズタレントのような見方をされるが、彼は製薬会社の父親から産まれた頭の良い家の息子ではあっても最後に通った高校も高学歴とは全く言えないような高校しか入学できてはいない。
彼は抜群の雑食な知識と人間の裏を見る推理力で正解を導き出すがそれは座学の基礎が出来てはいない人間。
高学歴には正解率で追い付けない。
クイズの推理力についてはカズレーザは完全に伊集院光の上位交換だ。
彼は座学の頭の良さも、DQN的な運動神経に関係する頭の良さも持ち合わせており、加えてあらゆる人間と下記寝なく人間関係を築ける。
彼の頭の中には様々な知識が溢れていて、溢れていても瞬時に思い出せないのでは意味がない。
しかしDQN的な運動神経はまるでスポーツのように適切な場所で知識を瞬時に引き出す。
分からない問題に対しては伊集院が知識×疑り深さ×想像力で対処するのに対して、カズレーザーは自分の中にいるDQNとオタクが瞬時に話し合いを始める。
完全に偏見だが世の中には突き詰めるとオタクとDQNしかいない。
彼等が話し合えばほとんどの問題に恐らく予測はつく。
知識と言うのは適切に結び付けばまるで答えが見えるのが当たり前のようにあっという間に正解にたどり着くんだ。
ZEEBRAとKJに見る額面通りではないディスの様々な側面
ZEEBRAは自分より売れた後輩のDragon AshのKJを公開処刑の音源で潰した。
KJの方が才能があったから売れたのか、KJはセルアウト(自分の楽曲を商業的に売り出すこと)だから売れて当然だったのか、ではZEEBRAは敢えてセルアウトしないのか、セルアウト出来なかったのか。
ZEEBRAがキングギドラで公開処刑の音源を出した過程には両者の色々な言い分があり、どちらが正しいとは一概には言えない。
しかしZEEBRAは今やテレビに出演しアメーバTVでフリースタイルダンジョンを企画して元気にやっている。
″まるでモノマネ歌合戦″はどちらだ。
仮にZEEBRAがKJの才能に嫉妬したならモノマネ芸人に自分より先に夢に到達されては格好がつかない。
公開処刑で共ににディスされたKICK THE CAN CREWのKREVAは一線で過去ほどの勢いはなくても未だにファンを魅了している。
話は変わるが元祖ユウチュウバーと言われながら勢いをなくしたメグウィンは一時期ユウチュウバーの学校を作りたいと言っていた。
現役で活躍できないなら大物ポジションで居座るしかない。
KREVAは才能があるから一線にいるままだ。
KJは指摘されてから、路線を変更した。
ヒップホップの世界でのディスは妬み嫉み同族嫌悪で満ちているから額面通りに受け取ってはいけない。
余談だが過去にZEEBRAをディスていた般若とZEEBRAは今じゃ親しい間柄だ。
ディスは愛情表現、ディスは妬み嫉妬・同族嫌悪の延長戦。
あるいは本当はお前みたいになりたいと言う隠れメッセージ。
少なからずの正しい指摘。
公開処刑の後、ZEEBRAはKJに対して自分で突き放しておきながら距離をつめるような面倒臭い発言をするのだが、それもディスの持つ面倒臭さである。
2008年、ZEEBRAが20周年を迎え、武道館で大規模LIVEを行う。さらに、ZEEBRAの歴史を振り返った書籍「ZEEBRA 自伝 HIP HOP LOVE」が発売される。この自伝には、「公開処刑の真相」も明らかにされており、Kjに対する思いが書かれている。その一部内容について見てみると、公開処刑後に出したDragon Ashの曲は、オリジナリティーがあって良いなどと述べており、もう既に、わだかまりはないとのこと。20周年を節目に、和解したいと語っていた。ただし、和解に対しては、Kj次第でもあるので、難しいようだ。ZEEBRAによれば、2002年から6年間以上、Kjと会ってもいないし、連絡もしてないらしい。一方、Kjも雑誌のインタビューで「Grateful Days」について、久々に語った。「正直やんなきゃよかった」というコメントをしている。今後、Kjが「Grateful Days」をLIVEなどで歌う可能性は極めて低いのだろう。
キングギドラ【ZEEBRA】がDragon Ash【KJ】に一方的なDISった件
ディスって置きながらそれが縁で引き下がられるのも嫌。
仲良くしたいのか、嫌いなのか、指摘したいのか、嫉妬なのか、潰したいのか、ラップ業界は男社会なのでそういう面倒臭さがある。
少なからずそういうのが嫌で離れた人たちもいるだろう。
セルアウトした人間もいるだろう。
それが自分が都合の良い時だけ名前を出して自分の縁に戻そうとする。
アンダーグラウンドに近いラップってそんな感じで、閉鎖的な田舎のような独特の腐った感性がある。
【感想】嫌われる勇気は巧妙に偽造した引き寄せの法則の上位交換
しかし散々擦られた引き寄せの法則が今さらこれだけのヒットを達成するはずがない。
この嫌われる勇気には引き寄せの法則を越えたある仕掛けが施されている。
今から3つ嫌われる勇気に仕掛けられた他の自己啓発本にはあまり見られない仕掛けについて書いていきたいと思う
その①嫌われる勇気は結果を″自ら選んだ″と言う言い方をする。
引き寄せの法則は″すでに叶っている″ように振る舞うと願いは叶うと言う。
しかし叶っていないのに叶ったように振る舞っていてはより自分に嘘をついているのが明白でリアリティがない。
そこで嫌われる勇気は結果を″自ら選んだ″と言う言い方をする。
自ら選ぶ以上結果は自分にとって、好ましいものでなくてはならず、そうすると人は良い結果を自然と考えるようになる。
その②読者の疑問を消す会話形式での洗脳
嫌われる勇気に登場する哲人は大変偏屈な男で、結果を″自ら選んだ″と言い張って譲らない絶対に親にはしたくはない人物だ。
そして先程から結果・結果と言っているが、いつを結果にするべきかと言う話にもなる。
嫌われる勇気で大切なのは以下に哲人の結果を″自ら選んだ″と言い張る姿勢を自らの考えにインプットするかと言う事で、″自ら選んだ?そんなの絶対におかしいだろう″と言う考えは″僕が考えた最強の哲学否定マン″こといかにも″嫌われる勇気″なんかに手をだしてしまいそうな神経質な男が徹底的に論破されており、その負けっぷりはぜひ嫌われる勇気を手にとって確認して欲しい。
とにかく嫌われる勇気は、哲人と読者の分身の会話形式で話をすすめる事で、より読者の考えを作中の主人公にあわせ疑問を持つタイミングや論破されるタイミングをコントロールされている。
だから普通の自己啓発本より悪い意味で洗脳されやすい。
そして洗脳される事が本書嫌われる勇気では大切なのだ。
結果は自分から選んでいる。
自分から選んでいるならネガティブな結果は拒否する、或いはネガティブな結果は見ないようにする。
すると、どうなるか?
少なくとも表向きの人間関係は良くなると思う。
好かれていると言う結果をイメージしたとして、それはよっぽど相手が″嫌い″と言う事実を完全にわかるまで示してこない以上、勘違いは可能になる。
今はたまたま機嫌が悪いのかな?とかそういう風にだ。
そういう勘違いが続けば自信がついてくる、自信がつけば顔つきが変わってくる。
それは芸能人を見ていればよく分かる、売れれば顔つきが変わってくる。
結果的にその良い顔つきに満ちた自信を相手は信じるようになり人間関係が上手くいきはじめる。
その③嫌われる勇気と言う嫌われ者を主題に置いた題名
嫌われる勇気がすごい所は、まず″嫌われる勇気″と言うネガティブな人間がいかにも手にとりそうなネーミングにしておきながら、敢えて会話形式をとりネガティブ人間を主人公と同化させ、その疑問を次から次へと論破して潰していく所だ。
結果を″自ら選んだ″。
しかし結果なんてどこを結果にするかなんて難しい所だ。
はじめは駄目でも後で上手く行く事なんて沢山ある。
今はネガティブな結果だが、最終的な結果には到達してはいない。
そう考えれば結果は後に後に追いやることが可能であり、そしてそう考える事に何かデメリットがあるかと言えば特に何もない。
そもそも三谷幸喜の古畑任三郎の言葉にあるように「自分が人に嫌われてんじゃないかって心配している皆さん、安心してください。
そういう場合は大抵本当に嫌われています。
問題なのは自分が人に嫌われているのが分かってない人の方で…」 。
世の中なんてどちらにしろネガティブな結果になるならポジティブな勘違いをしていた方がいいのだ。
ポジティブな人間にはポジティブな人間に相応しいポジションを与えたがる人はいる。
ネガティブな人間関係はその逆だ。
自分が人に嫌われているのが分かってない人でいいのだ。
考えても見てほしい自覚している嫌われ者はいつもつらいことばかり、しかし自覚していない嫌われ者は管理職になったりする。
自覚のない嫌われ者を世の中は求めているし、自覚のない嫌われ者のほうが世の中は優しくしてくれる。
喪黒がいなくなっても成立する現代社会を笑ゥせぇるすまんNEWは表現している【5話感想】
笑ゥせぇるすまんNEWの5話が中々良かった。
夫の大切なモノを捨てて夫婦を私物化しすぎた故に夫婦仲が拗れた2ちゃんねるのテンプレート的なエピソードだし、喪黒福造は介入しなくても成立するようなエピソードだったが、理想に狂いだした主婦が如何に人の言うことを聞かなくなるのかがよく出ていた。
例えば引きこもりはいつまでも血縁関係に自分の姿を家族に託していては、非を指摘されるが、主婦と言う肩書きはそれを隠す。
挙げ句それで夫まで自分勝手にコントロールしようとすれば、仲が拗れる。
何もしない引きこもりが家庭を支配するのは異常さが浮き彫りになるが、妻なら何もしなくて家庭を支配してもあまり異常だとは見なされない。
何故ならずっとTVは一番見てくれる主婦層に媚びてきたからだ。
NEWの喪黒は決まり手とも言える″ドン″をあまり使用しなくなったし、周りの客も喪黒に疑いの言葉をあまり口にしなくなった。
そして喪黒のキャラクターはより狂言回しのようになり薄くなった。
手慣れた感じで客を誘導し、空気のように仕事をする。
喪黒がいなくても今の世の中で笑ゥせぇるすまんはすでに成立しているとでも言いたいのか。
5話の冒頭は日曜倶楽部のリメイクだったが旧アニメ板はもっと悲惨に見えたエピソードだったがNEWはカラッとしていた。
TVメディアは衰退し、良くも悪くも私達の価値観を操らなくなった。
そしていつの間にか私達は他人のどんな不幸も幸福もどこか当たり前のように感じるようになり、TVの画面は昔より奇麗になり其の分何故か現実に起きている感覚は徐々に薄れてきている。
それは虚構でも現実でもだ。
今の喪黒福造には存在感がない。
しかしそれが現代の喪黒福造のあるべき姿なのかもしれない。